在処離れ

やさしく、あったかく生きていきたいです。

やさしくない遠慮をした

 

こんにちは。

 

今日は「遠慮」について書きます。

 

 

「遠慮」

他人に対して、言葉や行動をひかえめにすること。「彼に―して発言を控える」

 


広辞苑にのってる、一般的な辞書的意味です。

 

日本人は遠慮がちってよく言われるけど、私も例外無く、思いっきり遠慮しいです。

 

就活の履歴書とかに【特技:遠慮】って書きたいくらい。遠慮することが大好きだし、日々息をするように遠慮している。


ただ、「遠慮してよかったことは?」と言われると全く思い出せない。むしろ遠慮することで、損な思いだったり、悲しい気持ちになっている方が多い気がする。

 

私は元々人に甘えるのがどうも苦手でした。大学時代の先輩に「○○ちゃん(私)、奢るよ」と言われても素直に「いいんですか!ありがとうございます!」と言えず、「えっ……いいです…………」と言うかわいくない後輩でした。(結局奢られてしまうんだけど)(それなら可愛くお礼言えばよかったといつも思う)

 

「私に奢られる価値ない、優しくされる価値ない」と思っているからかも。

 


で、「遠慮」と言われて1番に思い出す苦いエピソードは、大学時代に行った小学校での5週間の教育実習のことです。


教育実習に行った時も、例外無く、周りの先生に遠慮しまくっていた。

例えば、ある先生がどこかに行ったお土産のお菓子を持ってきてくださった時に、折角「若い先生からどうぞ」と言ってくださってるのに、謎に「いやいや」と遠慮したりとか。

学校の畑で取れた野菜を職員室で山分けしている時に、(私は正式な先生じゃないから貰えないよなあ…)と遠慮してその場に混じれなかったり(後で、他の先生に「え、○○先生(私)なんで貰ってないの!?」と呆れられた)


まあ、そういうことが続いて、教育実習の最終日、研修担当の先生に、「もっと自分から先生の輪にグイグイ行かないとこの世界ではやっていけないし、(先生方に)かわいがられないよ」と言われたこともあった。


そんなことを言われた次の日とかは「めんどくさかったのかなあ」「受動的に見えたのかなあ」と凹んだし、「うむ、明日からはもっとしたたかに生きよう」と決意してみたけど、やっぱり遠慮の癖は抜けない。その後も遠慮する日々。

 

 

なんで遠慮をやめられないのかと考えました。たぶん、私にとって、遠慮も1種の自己防衛なんだと思います。

グイグイいけば、「なんだこいつ」と思われることもあるけど、遠慮していれば、たぶん疎まれることは無い。ただただ「影の薄い人」とか、運が良ければ「慎ましい人」とか思ってもらえるかもしれない。

特別目立って可愛がられることもないけど、ウザがられることも無いって感じかなあ。

 

多分、自分から起こしたアクションを断られることを極端に怖がっている。

告白して、断られるのが怖いから、告白しない。

これ手伝ってほしいな、と言って断られるのが怖いから、全部自分でやる。

みんな混ぜて、と言って混ぜてもらえないことが怖いから、1人で遊ぶ。

ずっとそんなふうに生きてきた気がします。

 

成功して喜びを得るよりも、断られて傷つくかもしれない可能性から自分を守ることを選んできた。だから、遠慮することも、自分を守る術のひとつです。

本当は遠慮したくないし、良い思いをしたいという気持ちも確かにあるけど、それよりも自分を拒否されることの方が私にとってはつらいことでした。

 

 

つい先日の授業でもこんなことがありました。

2人1組(友達同士)のペアで、ある図版を見せられ、それについて、何の形に見えるかのコメントを求められた。ちなみに心理テストみたいなもので、正解は無い図版です。


以下やりとり。

 

先生「この図版…あなた方は何に見えますか?」

私「……えっ、え~なんだろう……」

友「え~なんだろね~……」

私「ん~……何に見える?」

友「え、わたし!?」

私「あ、いや、えっ、わたしは…○○に見えるかなあ」

 

 

 

まあ、こんな何の変哲もないやりとりなんですが。

私たちのおしゃべりを見ていた先生が一言。

 


「○○さん(私)は、依存しやすいところがあるんですかねぇ?」

 


私「……!?」

 

 

びっくりした。けど、そこで、はたと思った。

「そうか、この場面を他人から見ると私は依存している(解答権を委ねている)ようにみえるんだな……」と。

 


わたしとしては依存しているつもりは全くありませんでした。

私がここで何に見えるか先に答えちゃったら、友達がもしわたしと同じ答えだったら気まづくなるかなあとか。

私が先に回答したら、私の話で終わっちゃうかなあとか。

まあ、そういう「遠慮」が働いていた。


私が話したい気持ちはあったけど、それよりも友達を優先させたいと思い、遠慮した結果でした。

 

 

 

そこで先生に「依存している」と言われたものだからビックリしてしまって。


でもよくよく考えたら、あの状況で友達に「何に見える?」と聞いたら、そう思われるのも当たり前だなあと思いました。そして、多分友達もそう思ったんじゃないかなあ。「なんでここで○○(私)は、解答権を投げるの!?」って。

 


そう振り返ると、遠慮ってエゴなんだなあと思って。

自分勝手に遠慮したとしても、意図が伝わらなければ迷惑でしかない。

勝手に「相手のため」に遠慮しているつもりだったけど、相手のためにすらなっていない。

しかも「相手のため」だと思ってるから、見返りを求めたくなってしまう。「わたしも遠慮したんだからあなたもちょっとは申し訳なさそうにしてよ!」と変にイラついたりしちゃたりして。こうなると、なんのために遠慮してるのかもうわからない。

 


冒頭に遠慮の辞書的意味を書いたけど、そこに「相手を思いやる気持ち」は一切含まれてないんですよね。ははあ、なるほど。

 

 

 

もう少ししたたかに生きてもいいのかも。と思う。

自分勝手な優しさではなくて、相手に伝わるような優しさを持っていたい。

遠慮しすぎて相手に気を遣わせることだけはやめたい。

 

 


そんなことを最近ぼんやりと考えてました。