こんばんは。
久々のブログ更新です。
最後のブログ更新を見ると、7月ですね……。
約、1年ぶりの更新かぁ。
書こう、書こう、とは思ってたんだけど。なかなか自分の考えることと向き合ったり、それを文字にする余裕が無かった……(言い訳)
そして、この記事も実は4月辺りに書き始めていたんだけど、しっくりこなくてずるずると。こんなに日が経ってしまいました!
そんなこんなで、呑気に更新をサボっている間に、なんと大学院を卒業して半年が経ちました。(すごい!)
卒業したこの年に、一度2年間を振り返ってみてもいいかなぁと思ってブログにすることにしました。
大学院の2年間はどうしても書き残さなきゃ、と思っていたし。
どうせ、何年か後には、このつらさも全部忘れていて、鮮明に思い出すことなんて出来ないんだから。それなら、こんなに頑張ってたんだよ、ということを覚えているうちに記しておきたい。笑
大学院生活はね、「つらかった」とか「くるしかった」とか、そういうような簡単な一言では言い表せない2年間だった。
「大学院に進んで良かったか?」と言われると、間違いなくyes。
ただ、「もう一度行けるとしたら行くか?」と言われると間違いなくNo。
大学院に進んだことに全く後悔はしていないけど、二度と戻りたくない。そんな2年間。
まっ、総括は後に書くとして、M1(大学院1年)から振り返ってみます。
【M1:4月】
もうあんまり覚えていないのだけれど、期待4割、不安6割みたいな感じで入学した気がする。
このブログでも散々書いた気がするのだけど、当時大学4年だった私は、とにかく早く大学を卒業したかった。
学部の友達は、非の打ち所0で、やさしくて、真面目で、楽しくて、本当に自分が情けなくなるくらいいい人たちばかりだったけど、(当時は)なぜかゼミにも学部にも居場所が無いように感じていた。わたしがそこを居場所だと認めていなかっただけかもしれない。
とにかく早く大学を出たい、早く大人になりたいと思っていた私は、「大学院に入学する」というより、「大学を卒業する」ことが嬉しかった。(そのくせ、卒業式では寂しくなって結構泣いた)
当時、私はメンタルよわよわだった上に、学部のゼミの教授から「マスター(修士課程)のMはmad(気が狂う)のM、ドクター(博士課程)のDはdepression(うつ病)のD」と散々聞かされていた私は、大学院にさほど憧れもなかった。
でも「学びたいことが学べる」というワクワク感も少なからずあった気がする。
そんなこんなで、大学院入学に関しては「これから頑張るぞ…!」という覚悟を決めるような気合いが4割、「こわい……」という不安が6割、という感じで入学した。
そういえば、ゼミも入学後、直ぐに決めた。ゼミ担にこだわりなどなく、誰でもよかった(コラ!)ので、1番優しそうな先生にした。
【M1:5月】
大学院生といえば、討論!ディスカッション!プレゼンテーション!(1番苦手)
…みたいなものを想像していた私は、入学してからというもの、レポート作成(と発表)が続く日々に、「あれ…案外なんとかなりそうだ…」と呑気に思っていた時期もあった。
大学院受験がすごく難しかったので、授業内容もついていけないのでは無いかとビクビクしていたが、想像していたほど難しくはなく、教授は丁寧に教えて下さったので、ほっとしていた。
しかし地獄はここからなのだった!
【M1:6月〜夏休み】
6月頃から、「ロールプレイ授業」というものがはじまった。
ざっくり言うと、「カウンセリングを大勢に見られながら行う」という感じ。もちろん、私がカウンセラー役で。
これがまあ、めちゃくちゃしんどかった。
もう当時の苦しさはよく覚えていないけど、苦しかった、辞めたい、と思ったこと自体は覚えている。
入学して約2ヶ月。カウンセリングとは何かなんて1mmも分かってない。どうやって人の話を聞けばいいかなんて、もっと分かってない。
何一つわからぬまま、ただ相手の話を聞いているフリをした。フリをすることで精一杯なので、当然クライエント(役)の話は全く頭に入っていない。
聞いているフリですら上手くいかず、教授には、相槌の多さやタイミング、視線、沈黙の長さ、発話の意図など、私の話の聞き方全てにツッコまれた。
教授からのそのツッコミは、「私の話の聞き方」ではなく、「今まで生きてきた私自身」を否定されたように聞こえて、とても悲しく、授業は毎回泣きそうだった。
自分を否定されている、という悲しさは段々、「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか?」という怒りに代わった。
というか、その授業に参加し続けるためには、「わたしが否定されているわけではなく、教授に理不尽なことを言われている」と思い込む必要があった。
怒っていないとメンタルが持たず、授業に参加していられなかったので、その授業は、いつも攻撃的なマインドで挑んでいた。そうすると、幾らか楽になり、なんとか授業は持ちこたえることができた。
その代わりに、そこにいた教授(3人)全員嫌いになった。……対価が大きすぎる!
学部時代は、責められるようなことがあると「なんでわたしはなにも出来ないんだろう…死にたい…」という思考回路だったけど、この頃の思考は「なんでこんなに追い詰められなきゃいけないの?いつか(相手を)殺してやる」だった。ある意味健康的かもしれない。
【M1:夏休み】
夏休みで解放されると思いきや。
めちゃくちゃ大イベント、学外実習。
とある精神科病院に行きました。
実習が始まる前は、それはもう嫌で嫌で嫌で嫌で。
精神科病院に行くことが嫌なのではなく、実習自体が嫌だった。
わたしは見通しがないと不安になっちゃうタイプので、何をするのか全く分からない実習は恐怖でしかなかった。
とにかくすごい嫌だったけど、同期と同じ実習先(めちゃくちゃ幸運)だったのが救いだった。
私が「実習嫌だね〜」と言った時、「頑張ろうよ」と言われるのではなく、同じ温度で「嫌だね」と言われることにほっとして、頑張れる気がした。
そんな実習は、思いの外楽しかったと記憶している。楽しかった、というのは不適切かも。
すごく勉強している、学んでるなあという感じ。充実していた。
大学院より幾らかマシ(表現が適切ではないかと思うが、それでも"マシ"という表現しかできない)だと何回も思った。大学院に戻りたくないとめちゃくちゃ思った。
大学院の何がそんなにしんどいのか自分でもよく分かっていなかったが、それでも大学院に戻 るくらいならこのまま実習していたいと本気で思った。
【M1:9月〜3月】
実習を充実感MAXで終え、大学院生活に戻った。まじで嫌だったけど、仕方がなかった。
しかも、このタイミングで、大学院の友達が1人辞めた。入学した時2人いた同期は1人だけになってしまった。
本当の理由は本人にしか分からないけれど、大学院のストレスも関係していると思う。
…実習後のM1の大学院生活は、実はそこまで大イベントは無かった。毎日嫌だなあ、辞めたいなあと思って大学院に通っていたけど、そんなに苦しい出来事はなかった。と思う。
毎日課題や、報告会や、ケース(学内実習)に追われて、忙しなくすごしていた。今思えば、割と平和に。
【M2:4月〜7月】
進級した。
M2が卒業して、M1が入学してきた。
わたしは後輩の立ち位置が好きなので、先輩になるの嫌だなあとぼんやり思った。
また、コロナウイルスの影響で、大学院生活にも色々変化があった。
構内に入れなくなって、授業などは家で受けた。これは、少なくとも、私にとってはすごく良かった点だと思っている。
学校まで車で40分。往復約1時間半。
研究室は陽の光が入らずいつもジメジメしている。気持ちも落ち込む。
そんな場所に行かなくても、家で授業を受けられることはだいぶ心を楽にさせた。
服も、上さえちゃんとすれば、下パジャマでもバレなかったし。
9時に授業開始で、8時40分に起きてもギリギリ間に合った。
そしてこの頃、修論のヤバさを自覚しつつも、コロナのせいにして何も手をつけていなかった。修論やらなきゃ……は常に頭の隅っこにあって、何をしてても100パーセントで楽しめない私がいた。
本来なら学外実習がこの時期にあるはずだったけれど、コロナで延期になったため、忙しいながらも平和に過ごしていた気がする。6月くらいから学内実習が再開したので、学校には行き始めたが、それでも週2とかだったんじゃないかしら…
【M2:夏休み明け〜卒業】
夏休み。学生生活最後の夏休みだ〜と弾けた……わけでもない。
コロナが蔓延しまくっていたので旅行にも行けず、家ですごした。何をしてたのかよく覚えてないけど、夏休みはあっという間に過ぎた。
夏休みの最後の方に、就職の為に帯広まで職場見学に行った気がする。思えばこれが最後のバケーションだった。同期と行ったので、8割は旅行、2割職場見学の気持ちだった。
結果、帯広旅行は楽しすぎて、帯広から本当に帰りたくなくて、このまま消えてなくなりたいな〜と思っていた。
そして。
夏休み明け、怒涛の毎日。
すぐに4週間(2週間+1週間+1週間)の実習。
なぜか実習先が3つもあったので、事前訪問や事前指導も3箇所分あって、それだけでめちゃくちゃ萎えた。
実習の合間に授業があったので、実習して、日誌書いて、授業、そしてまた実習に行くという鬼のようなサイクルだった。
1つ目の実習先は楽しく終え、とても勉強になったが、2つ目の実習先は、まぁ重くて重くて、毎日本当にしんどかった。
なんか、今振り返ってもこの実習先だけ系統が違ったというか、なんかこれまでと違うベクトルのしんどさだったと思う。
この実習先の職場の雰囲気もなんか不思議なものだった。雰囲気は特別良くもないし、特別悪くもないんだけど、ず〜っと漂っている絶妙な居心地の悪さ。実習生のわたしが感じていたくらいなのだから、そこで働いている人はどうだったんだろう。わからないけど。
そして、この実習中になんと修論の中間報告会が開催された。(なんでやねん)
修論している場合じゃなかったけど、修論報告はしないといけないので、空いた土日に報告会の準備をした。実習は1日お休みを頂いた(もちろんその分は後日に回る)
今までなら、報告会なんて嫌で嫌で仕方がなかったけど、報告会より実習のしんどさが勝ったので、報告会なんてもうどうでも良かったし、どんな意地悪な質問も乗り越えられる気がした。実際、中間報告のことはよく覚えてないから教授の攻撃を上手くかわせたんだと思う。
先にも書いたが、わたしは追い込まれると怒りに変わるタイプなので、2つ目の実習は常にイライラしていた。
実習中は色んなことが重なって、内心ずっとイライラしていたが(誰も悪くないのに)、態度には出ていなかったのか、実習担当には「飄々とこなしているように見えた」と評価をいただいた。良いのか悪いのか。
ちなみに、ここの実習先での実習評価の点数はそれまでの実習先と比べて1番良かった。わたしの中では1番きつい、二度とやりたくない実習だったけど。
3つめの実習先はこれまた内容的には重かったが、わたしは好きだった。ただ、事前訪問で実習担当だ、と紹介された先生には、実習中1度も会えなかった。
実習先で、心理の先生のお話をもっと聞きたかったな、というのが少し心残りではある。
けれど、実習自体はとても勉強になり、充実して終えることが出来た。
そういえば、3つめの実習をしている最中、夏休み、帯広に職場見学に行ったところに履歴書を出した。履歴書の他に、自己PRをA41枚で出さねばならず、長考した。実習から帰ってからも実習日誌が残る中、自己PR文を考えて書くのは相当疲れたけど、なんとか最終日に提出した。
が、履歴書を出すのが遅すぎて選考まで行かずに落ちた。後で知り合いに聞いた話では、もう私が履歴書を出した時点で、他の人の採用が決まっていたらしい。
そして、実習を終えるころには11月。
修論をやり始めないと本当にまずい時期に来ていた。7月、10月と報告会を適当にこなしてしまった私は、この期に及んで、分析方法が決まらず、めちゃくちゃ病んでいた。
こうやって病んでいる間にも実習報告があったり、就活があったり、学内実習があったり、紀要(短い論文)を書かないといけなかったりとやることは山ほどあり、とにかくずっと追い込まれていた。
この時点で私の中の優先順位は、実習報告>紀要>修論>>>就活だった。
もう本当に、この時期はとにかくイライラしていて、シャドーボクシングしたり家で叫んでみたりしていた。夜も追われてあんまり寝てなかったから肌も荒れていた。
そうこうしているうちに、実習報告と紀要を締め切り前ギリギリで終え、12月31日を迎える。
この時点で修士論文進捗0文字。
論文どころか分析も終わっていない。
唯一の同期と「年明け本気でやろう」と謎の契りを交わした。
ちなみに修論の締切は1月29日。だいぶ詰んでいる。
年明けからはもう修論修論修論…と思いきや、合間に就活が2回も入った。
正直、修論が本気でヤバすぎて、就活してる場合じゃなかった。だって、卒業しなければ就職もできない。面接に行ったけれど、どちらも落ちた。特にショックは無く、「あ、落ちたか…」位だった。そんなことより本当に修論がヤバかったのだ。
この頃のツイート、狂気じみてるから抜粋して貼っておこ。
多分、分析が終わったのが提出締切の10日くらい前。
そこからはじめて書き出したけど、まあ終わらない終わらない。書いても書いても終わらない。最後のツイートにも書いてあるけど、締切が金曜で、その週の月曜に、指導教官にまだ論文を見せられないという状況(先生ごめんなさい)。
その頃の生活は、朝8時頃に起きてご飯食べながら論文書いて、あとはモンエナとコーヒーだけ飲んで、夜中の3時とか4時に寝るという感じ。これが1週間続いた。担当教員には締切3日前くらいにはじめて提出した。今思えば本当に申し訳ないです…
夜中の2時頃、カフェインの取りすぎで、手が震えて動悸がめちゃくちゃ激しくなって、床に座り込み、立てなくなったこともあった。
まともに食べていなかったので頭痛と下痢が凄くて(汚い話ですみません)、「あ、わたし修論終わらせないまま死ぬのか…」と思った。「まあ、どうせ死ぬなら遺書でも書いとこ」と思ってスマホに「すべて大学院のせいです」とメモを残した。
夜中の3時頃、カフェイン中毒で手が震えてる動画を取り、同期に「わたし死ぬわ」と動画と一緒にLINEを送った。同期からすぐに返信があり、めっちゃ心配してくれたけど、冷静にこの時間まで起きてる同期もしんどいだろうなと思った。
この期間は、3日で2キロくらい痩せました。修論ダイエット。
そしてそして。
提出日の当日、金曜日。朝の4時頃まで書き続けて少し寝て、9時に家を出た。
17時提出締切で、15時くらいまで学校で同期と執筆作業。
総ページ数で言うと30枚くらいだった気がするけどよく覚えてない。
どりゃあ!と学生課に叩きつけて提出した。実質1週間で書いたと言っても過言ではない修士論文。1週間の割には、執筆の質は悪くはなかったと思う。分析の質は悪かったけど。
達成感はそりゃまあ凄まじいものがあった。この世の全てがどうでも良くなった。家帰って冷静に読んだら、結構な誤字やミスを発見したけど、まじでもうどうでもよくなって目をつむった。
開放感と達成感を感じたのも束の間、すぐに修士論文報告会と就活をしなければならなかった。同期は年末に就職が決まっていたので、若干置いてけぼり感はあったが、徐々に求人も増えてきており、いつか決まるだろうと呑気に考えていた。
1年間恐れに恐れた修士論文報告会は、遠隔で開催されたこともあり、思ったよりダメージは受けなかった。
色々ありがたすぎる(意味深)ご指摘やご意見をたくさん頂いたが、なんとか、かわした。かわしたという表現がぴったりすぎる。なんとなく答えられる範囲のことを答えたフリしたという感じ。
就活は、界隈ではまあまあネームバリューのあるだろう(と思われる)病院の面接を受けた。この病院は待遇面が悪く、受けた後にどうしようかちょっとだけ迷った。でも、新卒1年目だし、ネームバリューの恩恵を受けたい気持ちもあり、そこに就職することに決めた。
就職面接は正直よく覚えていないが、
このエピソードだけは生涯忘れられないと思う。面接の帰り道、「もしかして学士論文と聞いたのではなく、学位論文と聞いたのでは?」と気が付き、「落ちたか……」と思ったことだけは絶対に忘れない…
面接を受けた次の週、内定が決まった。
ホッとしたのと、学生生活終わりの寂しさと、やっと大学院から抜けられる嬉しさと。
大学院から抜けられる嬉しさの方が多かったかなあ。
そして卒業式したり。
ちょっとだけ東京旅行したりした。
春休みも、学内実習や、就職先での引き継ぎ勤務があったから、そこまではっちゃけられなかったけど、最後のバケーションを自分なりに楽しんだ。
……そして今に至るって感じです。
ほんとに濃厚だったなあ、2年間。
何を学んだかと言われると…なんだろう。
耐える力はついたかもしれない。色々な圧力や、理不尽や、プレッシャーに。
あと、自分にも他人にも寛容になったと思う。
大学のときは、とにかく自分も他人も大嫌いで。でもそんな自分も許せなくて、他人も自分も好きになりたくて、必死に生きていた。
大学院に入ってからは、あまり自分が嫌だとか、他人が嫌だとかは思わなかった気がする。それは、きっと大学院に進んだおかげで。わたしがなにをしても、同期や先生が「大丈夫だよ」と言ってくれる経験を積み重ねたからだし、わたしも同じく、ひとに「大丈夫だよ」と言い続けてきたからだ。
これだけでも、大学院行ってよかったかなと思っていることのひとつ。
あとはね、私は何も知らないんだということを学んだ。ひとの心をわかったと言う時、そのほとんどは「わかったつもり」のことで、本当の「わかった」にはたぶん一生たどりつけない。でも、「わかる」に近づく努力を怠らないこと、それが心理士という仕事なのだと思った。
「ひとのきもちがわからない」ということはわたしの中では真実だけれど、それを堂々と言うことは「わかる」ことを諦める免罪符にもなってるのかも、と最近思う。
「わからない」ながらも、「わかる」ことを諦めないにんげんでいたいなあ。それは、心理士としても、ひとりのにんげんとしても。
私は、まだ「わかった」に出会えたことがない。でも、なるべくわかろうとする人でいたい。わかるために努力していきたい。そう思えたのも、たぶん大学院のおかげです。
先にも書いたけど、大学院を卒業した節目でこのブログをちょこちょこかきはじめ、今、卒業して半年経ってしまった。
それは、社会人として半年経ったということだけれど、振り返るとここまで必死に駆け抜けてきた気がする。自分のきもちにあまり目を向けず、目の前のことをただひたすらこなしてきた感じ。
だけど、公認心理師試験や臨床心理士試験も終わり、仕事も少しずつ落ち着いてきた今、また自分のための勉強をしたいなと思っている。心理士としての自己研鑽。
自分のことも少しずつ見つめ直していきたい。自分の気持ちとか、アイデンティティとか、ライフスタイルとか。
もっともっとたくさん勉強しないと。
大学院振り返るとなんとも大変な2年間だったけれど、これからの人生は、きっともっと大変だから。豊かに、豊かに、生きていけるように、がんばろう。
ひとにやさしく、あたたかくなるために!