在処離れ

やさしく、あったかく生きていきたいです。

ごめんも言えない

 

こんばんは。

 

突然ですが、今、友だちとずっと冷戦状態にあります。

大学1年の時から、学科も専攻も違うのにずっと仲良くしてくれていた友だちです。

 

今は、仲直りしたいようなしたくないような不思議な気持ちなんだけど、とりあえず喧嘩したことについてもやもや悩んでたら、なんで喧嘩したのかわからなくなってきたし、どうしたいかもわからなくなってきた。

最近はその友だちがいる集まりをずっと避け続けているのだけど、本当にそれでいいのかな?という気がしている。

ちゃんと話さなきゃいけない気もするし、でもやっぱり話したくない、という2つの相反する気持ちがある。

 

 

とりあえず、一旦なんで喧嘩したかを整理して、どうするか考えよう…かな。ついでに友だちと自分の関係性について考えたことも書きます。

 

 

まず、そうだなあ、喧嘩の原因を考えるにあたって、(私から見た)その友達の人間性を書こう。

 

●ズバズバものを言う

●びっくりするくらいズバズバものを言う

●一度決めたら揺るがない

●やりたいと思ったことは絶対やらなきゃ気が済まない

●賢く、教養がある(頭の回転が早い)

●芯がある

●自信に満ち溢れている(ように私には見える)

 

 

ぱっと思いつくだけでもこんな感じです。つらつら沢山書いたけれど、まあここからわかるように、私とは真逆の性格の友だちです。

本当に、いつも「なんでわたしたち仲良いんだろうね」とお互い言い合うくらい真逆でした。

自分を卑下しているわけじゃないけれど、私は頭が良くないし、揺らぎまくりだし、自分の意見を人になかなか言えません。

だから、その友達のことは羨ましくもあり、尊敬もあり、たまに「本当に合わないな」といらついちゃうこともあり、でも、何より気が利いて優しくて、会話が楽しく、大好きな友だちでした。

 

 

その友だちと大喧嘩したのは4泊6日のスペイン卒業旅行です。正確に言うと喧嘩と言うより、本当に冷戦って感じなんだけれど。

言葉にして言い合ったわけじゃなくて、お互い溜め込んでお互いイライラして、距離を置いている状態だから。

 

実は、この卒業旅行、計画の段階から意見があんまり合わず、「この旅行大丈夫なのか……?」とちょっと不安だったんです。だけど、この旅行の2年ほど前にその友達と3泊4日の国内旅行に行っていて、「友達と国内旅行という大イベントを乗り越えた経験」があったので、「何とかなるだろう」とそこまで心配してませんでした。国内旅行は普通に楽しかったし。

 

だけど、このスペイン(卒業旅行)は本ッッッッッッッッ当につらかった……「ッ」の量から辛さを察して欲しい。マジでつらかった。

あまりお金の話はしたくないけれど、うん10万だして、こんなつらい気持ちになんなきゃいけないことある?と言いたくなっちゃう。言いたくなっちゃうよ…… 

 

早く街を出て、ホテルに帰りたかったし、なんなら早く日本に戻りたかった。でも、そんなこと考えてる自分がなんか虚しくて悲しかった。友達にとってその場には私しかいないのに。私がそんな楽しめない気持ちでいるせいで、友達もきっと楽しめてない。それが普通につらかった。

ずっとずっと私との旅行を楽しみにしてくれていたのになあ。その気持ちに応えてあげたいけど、でも私も私でつらいので、もう本当どうしようもない。そんな息苦しい6日間。

明確に「これのせいで喧嘩した!」という出来事はありませんでした。だからこそ、本当に人間性の違いというか、性格の違いというか、そういうものが浮き彫りになったんだろうなあという気がする。

 

 

なんで私は辛かったんだろう。なんか、なんだろう…その旅行中は、ずっと自分の意見を受け入れられていない気がしていた。

「これがしたい」とか「あれが食べたい」っていうことを私が言うことが許されていない雰囲気があった。

「○○したい」って私が言えば「いいよ」とは言ってくれるけど、端的に言えば、すごく不満そうだった。私の好きな店と、彼女の好きな店の雰囲気が違いすぎるのもあったのかな。

 

 

あと、私、英語全く話せなくて。地理感も無くて。私が友達に「ここってこうじゃない?」と言うことが、殆ど合っていた試しがない(わたしが悪いんだけど)

 

それもあって、私の言うことをほとんど聞いてくれなかった……友だちの立場からしたら、「こいつ何の役にも立たない…」って気持ちなんだろうけど、私は私なりに一生懸命考えて発言していたので、なんでもかんでも「いや」「でも」と否定形から入られるのはつらかった。そしてその上下関係みたいなものが出来たのが見えた時点で、「あ、これ上手くいかないな」と思いました。

「これを言ったら友達に否定されるかな」と友達に対して私が思う時点で、もうダメだなって。私もびびって発言しなくなるし。そうなるともう本当に対等でいられなくなるなあ、と。

 

冒頭に書いたように、友だちはズバッとものを言える人なんです。わたしはそれが面白くて好きで、いつも楽しく聞いていたけど、それをいざ自分に向けられると「こわい」と思うのが、もうダメだなって。

今までは友達が誰かに対してズバッと言っているのを聞いて笑ったりしてた。私に対してズバッとアドバイスしてくれたこともあったけど、その人の愛をちゃんと感じてた。

 

けど、余裕がなくなった時の「ズバッ」は遠慮がない。優しくして欲しいわけじゃなくて、そういう友達からの遠慮のない「ズバッ」に対して私の余裕的に耐えられなかったのと、私が彼女に「ズバッ」と思ったことを言う、ということが出来なかったことがダメだった。

「この人には何言っても大丈夫」という信頼が築けてなかったのかもなあ、って。

多分これが滞在1日目くらいで気づいたことで。

 

 

あとは、旅行の目的も違ったのかも。

私は多分、根はとても楽観主義なんです。

他人にどう思われてるかとかそういうことが不安で予防線を貼っちゃう(のがネガティブにみえる)だけで、心の奥底では、大抵の事はなんとかなると思ってる。し、そうなると分かっている。

異国での旅行も、そのなんとかなる精神でした。これは本当、人によると思うけど、私はめちゃくちゃ綿密に計画立てて観光するよりも何もわからない土地をのんびりと歩いて、雰囲気を味わうのが楽しみだった。行ってみたい世界遺産も、見てみたい建物ももちろんあるけれど、そのルートと電車を調べて…っていうのにもしとてもエネルギーを使うのだとしたら、最悪行きの飛行機と帰る飛行機だけ決めてあとはのんびりブラブラでも良かった。行けたらいいよね、くらい。

 

だから、旅行中も、「ほんとスペイン語って全く何言ってるかわからないね~!」ということすら楽しみたかったんだと思う。「行きたかったこの店今日休みじゃん!」っていうプチアクシデントも、「メニュー全部スペイン語だから、何書いてるか全然わからない!」ということも、全部含めて私は笑いたかった。

行きたいところに行けなくても、食べたいものを食べれなくても、別によかった。

全くスペイン語が話せなくてスペイン人とジェスチャーで会話したり、地理感ないせいで道に迷って街をぶらつくようなことがあっても、いいなあ、なんて思ってた。

私にとって旅の目的は「友達と旅行を楽しむこと」だったから。だから正直スペインじゃなくてもよかった。イギリスでも、フランスでも、「どこかに誰かと行く」という特別な体験を楽しみたかったんです。

 

でも、友だちは違ったんだと思います。スペイン語が離せないなら、ちゃんと英語が使える場所で、正しい英語を使って、確実に欲しいものを手に入れたかった。アクシデントは許されなかったし、だからこそ行きたい美術館が休館日だったことにショックを受け、イライラしていた。友達の旅行の目的は多分、「スペインを楽しむこと」だった。

 

別にどっちのタイプがいいとか悪いとかそういうことを言いたいのではないです。

ただ、その価値観の違いを共有しないまま当日を迎えたのがダメだっただけで。

 

 

旅行でつらい思いをしたのが結構トラウマで、勝手に「友達のせいだ」と思い込んでたけど、こうやって整理するとやっぱりお互い様だったな。お互い歩み寄れなかったし、お互い譲れないところがあった。あとどっちも言葉が通じなくて疲れてた。知らない街だし。

 

 

それでギクシャクしたまま帰国したんだけど、そのまま卒業式が来て。

 

卒業式の時に、せめてちょっとでも仲直りしたいなあって思って、「一緒に写真撮ろ」って言ってみたんです。めちゃくちゃ緊張してたけど。

2人のときだと、旅行の話蒸し返してしまって、また険悪になるかなあって思って、あえてみんなの前で。みんなも、私たちが仲良いのは知ってたし、ここでなら友達も断らないだろうって思った。

 

 

そしたら、

「私、顔がタイプな子としか一緒に写真撮らないから。」

 

 

素で「は?」って言ってしまった。

ショックというか、ショックもあるし、なんかふつうにムカついちゃった。

友達は笑いながら言ってたから、多分、周りはジョークに聞こえてたと思うんだけど、私には完全な拒絶だとしか思えなかった。多分友達もそのつもりで言ってる。「私と写真撮りたくない」ってことを伝えてた。

 

写真を撮りたくないなら撮りたくないでいいんだけど(それはそれで普通にショックだけど)「いや今顔がどうのこうのは違うでしょ」と思った。拒絶の仕方に傷ついた。ふつうにつらくて胸がバクバクしてた。

 

私も、「いやなんでよ!撮ってよ~!」って笑って誤魔化したけど、もう私も絶対言うもんかと思ったし、いよいよほんとに仲良くなれないなと思ってしまった。

 

で、そのまま友達は就職して、私は院進して。

 

毎日のようにめっちゃくだらないLINEしてたのが、ぱったり。(向こうが就職したってのもあるけど)

 

ほんと、8月になろう今でも音沙汰なし。私もせず。笑

 

 

ただ、喉元過ぎれば熱さ忘れる(ちょっと違う?)というか、これ当時3月の話なので、時間が立って今は全然怒りとか悲しさとかは無い。思い出して胸がバクバクすることもない。

 

ただもう1回仲良くしたいかと言われるとそれも微妙。もう、会ったらずっと顔色伺ってしまう気がする。

だけどこのままでいいのかと言われるとそれもどうなのかないいのかな…って感じ。

 

ほんとに仲良かったんだよなあ。

大学はその子のおかげで頑張れてた面も少なからずあると思う。好きだった。

 

 

本当に、どうしたらいいかわからない(T_T)

今更、「あの時は…」って蒸し返すのも勇気がいる。あの空気は二度と味わいたくない。

かといって、何も無かった顔では会えない。

でも会いたいんだよなあ、たわいもない話しをしたい。

 

 

どうしたらいいんだ、って、ふとした時に考えてしまうのを、ずっと繰り返してます。

 

 

 

頑張ってLINEしてみようかなあ。うーん。

 

 

 

 

 

好きなうた(SUPER BEAVER編)

 

 

こんにちは。

 

わたしはSUPER BEAVER(以下ビーバー)というバンドが好きです。

いつかこの人たちについて書きたいなあと思っていて、なかなかタイミングがつかめずにいたのですが、時間があったので書きたいと思います。

 

「なぜ突然ブログで音楽(しかもバンド)!?」って思われるかな。笑

 

わたしは自分の生きづらさを音楽で緩和してきたと思っています。

だってきっと、音楽がなければとっくにダメだった。

つらいとき苦しいとき、他の人の言葉が聞けなくても、音楽だけは聞けた。

 

はじめてビーバーの曲を聴いたのは、大学3年の冬だったと思います。他のバンドの曲をyoutubeで流していて,"関連動画"のところにビーバーがたまたまいたのがきっかけです。

 

大学3年のわたしといえば,今までで1番病んでいた時期でした。

ゼミにはいったばかりで、入りたくて入ったゼミだったけど、授業のたびに自分が何もできない人間だということを思い知らされていた。

毎回自分の頭のトロさに悲しくなって、必要とされていないんじゃないかと思い込んで、「自分じゃないほかの人がゼミに入ったほうがみんな幸せだったのに」とか思って。

期待されたいけど、期待に応えられるだけの実力は無くて、認めてほしいのに認めてと言えなくて、自己肯定感とか自尊心とかそんなものは下がりまくっていて。

その頃は普通に生きていくことさえしんどかった。毎日学校行く足が重くて。

 

その頃に書いた日記とか最近たまに読み返すんですけど、本当「消えたい」「つらい」ばっかりで、我ながら軽く引きました。引くけど、やっぱり当時すごくつらかったんだなあと思います。

 

 

そんな感情の時に、ビーバーの「うるさい」という曲のMVを見たんです。

 

「うるさい」には、途中でこんな歌詞がでてきます。

 

”言いたいことがあるのに言えない 笑いたいときに上手く笑えない 嫌々なのに嫌だと言えない 大好きなのに好きだと言えない” 

 

このフレーズを聞いた時、いまのわたしだ、と思いました。

すごい友達に囲まれて委縮して、言いたいことも言えなくて、みんなと笑いたいのになぜか自分だけうまく笑えなくて、自己嫌悪ばっかりしている自分と、この歌が重なりました。

 

 

そのあとの歌詞です。

 

せめて大切な人を傷つけないためだったらいいけど そうじゃないなら どうしてあなたが苦しんでるの? 僕には納得できないよ 

 

なんか、もう、聞いている最中、胸がぎゅうっとなって、涙がでました。とてもくるしかった。ここだけに味方がいる、という感じがしました。

 

それは、母親でもなくて、父親でもなくて、友達でも、先輩でも、教授でもなくて。この音楽だけが今は味方なんだという気がしていました。

色々な助言を貰うより、頑張れと言葉をかけられるより。わたしの代わりに怒ってくれるような乱暴な優しさを感じて、すごく救われた。

私が、感じていた理不尽さだったり、言いたいことも言えない苦しさに、この歌だけは気づいてくれている気がした。

 

「うるさい」のサビはこんなフレーズです。

 

「自己犠牲」うるさい もっと単純に 愛したいよ

 

自分も他人も、もっと単純なはずなんです。好きとか嫌いとか。嫌とか嫌じゃないとか。話したいとか話したくないとか。本当はなにもかもすごくシンプルなはずなんです。

でもいろんなことを考えすぎて、なんかがんじがらめになって、言いたいことも素直に言えなくて、結局相手のことも自分のことも大切にしていなかった。自分の考えや意見を制して、自分のことを大事にしていないのは、相手のことも大事にしていないことだと気づかなかった。

 

 

毎日必死に生きていると、こんなことはよくあると思うんです。

自分が大事にしていたことってなんだったっけ。自分が本当にしたいことってなんだっけ。どういう自分でいたいんだっけ。

おとなになるにつれて、世間体や社会人としての自覚を求められて、他人の声が正しい気がして、自分の大切にしていたことがわからなくなってしまうことが、わたしも増えた。

大事なことはあったはずだけど、それが周りには受け入れられないような気がして、みんなに違うと言われて、「そっかわたしは間違ってたのか」って思うこと沢山あると思います。

さいころ好きだった宝物は、大きくなってなぜか好きと言えなくなって、趣味や考えを隠して、周りに合わせて、合わせて、合わせて。

 

でも、ビーバーの曲を聴いて、もっとシンプルに考えようかな、と思うようになりました。「本当に大切なことってなんだっけ?」と考えきっかけになる。

 

 

 

例えば「本音」という曲の中で

 

本音ばっか言ってったって きっと 嫌われてしまうだけだと 言うけど 嘘ばかりじゃさ 虚しいだけでしょう 捨ててしまえよ

 

っていうフレーズがあるんです。曲を聴いて、そうだよなあと思う。

 

でも、やっぱり嘘をついてしまう自分を変えられない。この歌のような生き方をしたいと思いながら、でもやっぱり本音なんて言ってたら誰も相手にしてくれない、なんて反対のことも思う。

 

でも、歌詞がとてもまっすぐに訴えかけてくれるからこそ、歌詞にうつる生き方を通して、自分の捻くれた生き方を見つめなおしたり、自分も自分らしくいたいと思う。

「どうしたらいいの」とがんじがらめになって思考停止いたのが「すこしでも変えたい」とおもえる。こんなわたしの音楽に対する向き合い方さえ、ビーバーの人柄や努力が産みだしてるんだろうなあ、と思うと、またビーバーが好きになります。

 

 

本当に皆に聞いて欲しいなあ…

そして一緒にライブ行きたい(笑)

 

 

SUPER BEAVER、検索してみると分かると思うんですが、最初(私にとっては)見た目が強そうで、サウンドも攻撃的で、ちょっと怖いなと思いました。私は特に今までこういうロックを全く聞いてこなかった人なので、尚更。

初見で「えっ……なるほど……」ってなる人は少なくないと思います。笑

 

 

でも、自分のことが嫌いな人、そんな自分に悩んでいる人こそ聞いて欲しいなあと思います。

彼らの真っ直ぐで素直な言葉は、多分、力強くあなたの背中を押してくれるから。

 

 

 

 

 

 

やさしくない遠慮をした

 

こんにちは。

 

今日は「遠慮」について書きます。

 

 

「遠慮」

他人に対して、言葉や行動をひかえめにすること。「彼に―して発言を控える」

 


広辞苑にのってる、一般的な辞書的意味です。

 

日本人は遠慮がちってよく言われるけど、私も例外無く、思いっきり遠慮しいです。

 

就活の履歴書とかに【特技:遠慮】って書きたいくらい。遠慮することが大好きだし、日々息をするように遠慮している。


ただ、「遠慮してよかったことは?」と言われると全く思い出せない。むしろ遠慮することで、損な思いだったり、悲しい気持ちになっている方が多い気がする。

 

私は元々人に甘えるのがどうも苦手でした。大学時代の先輩に「○○ちゃん(私)、奢るよ」と言われても素直に「いいんですか!ありがとうございます!」と言えず、「えっ……いいです…………」と言うかわいくない後輩でした。(結局奢られてしまうんだけど)(それなら可愛くお礼言えばよかったといつも思う)

 

「私に奢られる価値ない、優しくされる価値ない」と思っているからかも。

 


で、「遠慮」と言われて1番に思い出す苦いエピソードは、大学時代に行った小学校での5週間の教育実習のことです。


教育実習に行った時も、例外無く、周りの先生に遠慮しまくっていた。

例えば、ある先生がどこかに行ったお土産のお菓子を持ってきてくださった時に、折角「若い先生からどうぞ」と言ってくださってるのに、謎に「いやいや」と遠慮したりとか。

学校の畑で取れた野菜を職員室で山分けしている時に、(私は正式な先生じゃないから貰えないよなあ…)と遠慮してその場に混じれなかったり(後で、他の先生に「え、○○先生(私)なんで貰ってないの!?」と呆れられた)


まあ、そういうことが続いて、教育実習の最終日、研修担当の先生に、「もっと自分から先生の輪にグイグイ行かないとこの世界ではやっていけないし、(先生方に)かわいがられないよ」と言われたこともあった。


そんなことを言われた次の日とかは「めんどくさかったのかなあ」「受動的に見えたのかなあ」と凹んだし、「うむ、明日からはもっとしたたかに生きよう」と決意してみたけど、やっぱり遠慮の癖は抜けない。その後も遠慮する日々。

 

 

なんで遠慮をやめられないのかと考えました。たぶん、私にとって、遠慮も1種の自己防衛なんだと思います。

グイグイいけば、「なんだこいつ」と思われることもあるけど、遠慮していれば、たぶん疎まれることは無い。ただただ「影の薄い人」とか、運が良ければ「慎ましい人」とか思ってもらえるかもしれない。

特別目立って可愛がられることもないけど、ウザがられることも無いって感じかなあ。

 

多分、自分から起こしたアクションを断られることを極端に怖がっている。

告白して、断られるのが怖いから、告白しない。

これ手伝ってほしいな、と言って断られるのが怖いから、全部自分でやる。

みんな混ぜて、と言って混ぜてもらえないことが怖いから、1人で遊ぶ。

ずっとそんなふうに生きてきた気がします。

 

成功して喜びを得るよりも、断られて傷つくかもしれない可能性から自分を守ることを選んできた。だから、遠慮することも、自分を守る術のひとつです。

本当は遠慮したくないし、良い思いをしたいという気持ちも確かにあるけど、それよりも自分を拒否されることの方が私にとってはつらいことでした。

 

 

つい先日の授業でもこんなことがありました。

2人1組(友達同士)のペアで、ある図版を見せられ、それについて、何の形に見えるかのコメントを求められた。ちなみに心理テストみたいなもので、正解は無い図版です。


以下やりとり。

 

先生「この図版…あなた方は何に見えますか?」

私「……えっ、え~なんだろう……」

友「え~なんだろね~……」

私「ん~……何に見える?」

友「え、わたし!?」

私「あ、いや、えっ、わたしは…○○に見えるかなあ」

 

 

 

まあ、こんな何の変哲もないやりとりなんですが。

私たちのおしゃべりを見ていた先生が一言。

 


「○○さん(私)は、依存しやすいところがあるんですかねぇ?」

 


私「……!?」

 

 

びっくりした。けど、そこで、はたと思った。

「そうか、この場面を他人から見ると私は依存している(解答権を委ねている)ようにみえるんだな……」と。

 


わたしとしては依存しているつもりは全くありませんでした。

私がここで何に見えるか先に答えちゃったら、友達がもしわたしと同じ答えだったら気まづくなるかなあとか。

私が先に回答したら、私の話で終わっちゃうかなあとか。

まあ、そういう「遠慮」が働いていた。


私が話したい気持ちはあったけど、それよりも友達を優先させたいと思い、遠慮した結果でした。

 

 

 

そこで先生に「依存している」と言われたものだからビックリしてしまって。


でもよくよく考えたら、あの状況で友達に「何に見える?」と聞いたら、そう思われるのも当たり前だなあと思いました。そして、多分友達もそう思ったんじゃないかなあ。「なんでここで○○(私)は、解答権を投げるの!?」って。

 


そう振り返ると、遠慮ってエゴなんだなあと思って。

自分勝手に遠慮したとしても、意図が伝わらなければ迷惑でしかない。

勝手に「相手のため」に遠慮しているつもりだったけど、相手のためにすらなっていない。

しかも「相手のため」だと思ってるから、見返りを求めたくなってしまう。「わたしも遠慮したんだからあなたもちょっとは申し訳なさそうにしてよ!」と変にイラついたりしちゃたりして。こうなると、なんのために遠慮してるのかもうわからない。

 


冒頭に遠慮の辞書的意味を書いたけど、そこに「相手を思いやる気持ち」は一切含まれてないんですよね。ははあ、なるほど。

 

 

 

もう少ししたたかに生きてもいいのかも。と思う。

自分勝手な優しさではなくて、相手に伝わるような優しさを持っていたい。

遠慮しすぎて相手に気を遣わせることだけはやめたい。

 

 


そんなことを最近ぼんやりと考えてました。

 

 

 

他人の苦しみを測ること

 

 

 

こんばんは。

 

今日は、親が遠回しに釘を刺してくるのがしんどい!という話を書きます。笑

 

先日テレビで「中高年のフリーターが増えている」というニュースが流れているのを見ました。

そのテレビの中で、40代のフリーターのおじさんが「仕事がしたくてもできない。本当につらい、死にたい」と語っていました。

 

そのテレビを母と見ていたのですが、母は一言、「そんなのみんなしんどいしょやね。働き盛りの40代が働かないなんて、親も大変だよね」と。

 

その言葉を聞いて私はなんだか胸がぎゅっとなりました。なんか、なんだろう、「私には、働かない未来なんて想定されてないんだなあ」と、思いました。そうやって、多分母は無意識に、「40代になって働かないなんてありえない」と釘を刺します。いつも。

 

働けない理由なんて人それぞれで、そのおじさんがどんな理由で働けないのかは私は知りません。でも、働けない本人が「死にたいほど辛い」と言っているのに、母の言葉は「みんなしんどい」のだから、働かないことは「怠け」だと言っているように聞こえました。他人の「つらい」理由なんて絶対わかりっこないのに、「みんなつらいんだから」と無神経に話す母親のことを、嫌だなあと思いました。

 

「みんなしんどい」はたぶん事実で、正解です。母も、父も、しんどい思いをしながらお金を稼いでくれているのだと思います。

でも、正しいことをいくら口にしても、本人がつらいと言っているのなら、その人にとってその言葉は、冷たく刺さるんじゃないかな。その人にとっての正解じゃ無いんじゃないかなあ。

 

「つらい」という人に対して、「わたしもつらい」という返しは、「あなたの問題はあなたで抱えて」という相手を突き放すメッセージだと思っています。

「わたしはあなたの"つらい"なんて知らないよ。わたしもつらいんだから」って。「あなたはあなたでがんばってよ」って。

「つらい」と言って「わたしもつらい」と言われるくらいなら、「ごめんね、今はちゃんと聞いてあげられそうにない」と言って欲しいです。

 

いや、私も、母にテレビの40代のフリーターのおじさんの心に寄り添え!って思ってるわけじゃないです。笑

 

でも、無神経に「みんなしんどいんだから」と話す母親に、とても冷たくて、胸が詰まるような思いがしたという話で。それは、私に向けて言われた言葉だったような気もして。余計に。

 

 

…ショックだったなあ。もし私が40歳になって、つらくて仕事が出来なくなって、働きたくても働けなくなった時、「みんな頑張ってるんだから!」と言われるんだろうか。

 

 

その話だけじゃなくて、他にも、大学を中退した友達の話をした時に、「勿体ない、親が必死に稼いだお金なのに。親不孝だね」と言ったり。

たしかに、私の4年間の大学の学費は、国立といえどもウチにはポンと出せるような金額じゃなかった。「勿体ない」と言う母の気持ちもわかります。でも、何故か母からその言葉を聞くのは苦しかった。

 

他人がどうして大学を中退したかなんてわかりようがなくて、その背景にどれだけの思いがあるかなんて知りようがなくて、でもきっと、とても苦しくて大きな決断だったはずで、それを忖度しようともしない態度が多分すごく嫌だったんだと思う。

 

例えば、私がいじめにあったとして、どうしても辛くて、大学に行けなくなったら「お金が勿体ないから行け」と言うんだろうか。

辛くて苦しくて、怒られる覚悟で「大学行きたくない」と言っても、「親不孝だ」と言うんだろうか。

 

今書きながら思ったけど、私が嫌なのは、「親が遠回しに釘をさしてくること」じゃなくて、「他人の苦しみまで自分の物差しで測る」ことなのかもしれない。

そして、その態度がわたしへの釘差し(あなたはそうならないようにという牽制)に感じたんだと思います。

 

 

 

でも、もし私が親になったら、子どもにはいい大学を出て、いい会社に入って欲しいとか思うんだろうか。

自分の子供だけは大丈夫だと思うのかな。私も釘刺すようになるのかな。

 

もし私に大切な人が出来たら、その人のことはたくさん信じたいし、たくさん認めたい。ちゃんと逃げ道もあるよ、逃げてもいいよって伝えよう。あなたがあなたであれば私は嬉しいよって。

どんな生き方をしても、ちゃんと受け止めるし、味方だよって伝えたい。

 

 

 

やっと自分を認められるようになった

 

 

 

こんにちは。


最近やっと自分を好きになりたいと思えるようになりました。そのために、自分で自分を褒めてみたり、「よく頑張った」と認めてみたりして。

前までは、自分で自分を褒めるなんて考えられなかったことです。えらいぞ、わたし。

 


多分自分が嫌いすぎてしょうがない人って、1回くらいはGoogleで「自分 好きになりたい」とか検索してると思うんだけど(これ前も言ったな)。笑

大抵「ご自分を認めてあげてください」って書いてあるんです。「小さいことでも褒めてあげてください」とか。だから、自分を好きになるにはまず自分を認めることが必要なんだと思います。

 

でも前までは、そんなこと出来なかった。自分なんて褒めるところがないと思ってたから。

嫌いで嫌いで仕方ない自分に、褒めてつかわす所なんてひとつもなくて、ただただ自己嫌悪。

それと同時に、「わたしは幸せになっていいのか?」「わたしはわたしを認めていいのか?」という不安もありました。


「幸せになりたい」って願うのは、当たり前のことだし、たぶんみんな心の奥底ではそう願っているんだろうけど、私はそう思えない時期があって。

1年ほど前の記事の、

これでも、同じようなこと書いたんだけれど、昔のわたしには、「自分で自分を褒めたらダメ」みたいな自分ルールがありました。


なんで自分を褒めちゃダメ、なんてドSルールがあったのか。それは、自分じゃなくて、他人に認められたかったからです。

わたしは、「自分を肯定できるのは、自分が認めた人に認められた時だけだ」と知っていた。

だから、認めてない自分にじゃなくて、だれでもいいから、私が認めていた他者に褒めて欲しかったんです。

 

自分は自分のことを嫌いなままでいいから、他の人から「すごいね」「えらいね」「がんばってるね」って言われたかった。

もし自分で自分に満足しちゃったら、誰かからの「すごいね」が私にとって意味をなさなくなるような、そんな気がして、私は「自分が嫌いな、かわいそうな人」をわざわざ演じていたのかもしれないです。

「自分を嫌い」って思っていれば、誰かが「なんでそんな自分のこと嫌いなの?こんなにいいところあるのに」と言ってくれる気がしていた。自分で認められない長所を、他人が認めてくれる気がしていた。


だから、自分を好きになることが怖かった。自分で自分を満たしてしまえば、他人から求められることを必要としなくなると思ったから。

そんな歪みまくった承認欲求を拗らせ続け(泣)、自分を認めることを避け続けていました。

 

 

でも、正直ずっと満たされることは無かったです。むしろ悲しくなったりつらくなる方が多かった。

 

何かを頑張った時には誰かが「すごいね」と褒めてくれるけど、それは一時的なもの。最初は「頑張ってよかったあ!」と嬉しくなるけど、麻薬みたいにすぐ効果は切れて、足りなくなる。

しかも、褒められる嬉しさよりも、ずっと「なんでこんなに辛いのに誰も認めてくれないんだ」という気持ちの時間の方が長かった。他人に認めて欲しいのに、他人に「認めて」と伝える度胸をもちあわせていない私は、ひたすら何もしないで認められることを待ち続け、認められるわけがなく、その度に勝手に傷ついて、悲しくなっていました。

 


でもね、最近は他人で自分を満たすんじゃなくて、自分で自分を満たそうと頑張っています。

それは、他人はわたしをずっと認めてくれていたんだということに(やっと)気がついたから。

認めるっていうか、なんだろう、ずっと受け入れてくれてたんだなって。

怖がりで、臆病な私が、勝手に受け入れられてないと思い込んでいただけなんだなあって。私は「認めてくれない」と100%被害者ぶってたけど、実は、自分の勝手なイメージで、自分も他者も傷つけていたのかもしれない。

そもそも、よく考えたら、1度もみんなに「嫌い」なんて言われたことない。「あんたなんか認めてない」と言われたことがない。いつも「頑張っててすごいね」「○○(私)といると楽しい」って言ってくれてる。わたしがその言葉を受け入れてこなかっただけで、ちゃんと沢山認めてもらってるよ、わたし。

 

ここに気がつくのにすごい時間がかかった。し、シンプルに気づくまでがつらすぎた。

しかもなんで気づけたのか未だによくわかってない。

最近、卒業式とか、追いコンとか、そういう「別れ」のイベントがすごく多くて、素直に「今までありがとう」って感謝を沢山皆に言えたからかも。

そうしたら、逆に感謝されたりして。「わたし、皆のこと大好きだったんだなあ」っていう私から皆への愛と、「皆、私の事好きでいてくれていたんだなあ」っていう皆からの愛に気づけたのかもしれない。

 

まあ、そんなこともあって、もう、他人に受け入れられたい、認められたい、と思うのはやめたいなあと思ってます。受け入れられてることをすこし気づけたから。

 

逆に今は受け入れてくれてありがとう、の気持ちです。優しくしてくれてありがとう。仲良くしてくれてありがとう。愛してくれてありがとう。

 

 

そして、最初に言ったように、最近は他人じゃなくって、自分で自分を認めることを積極的にがんばろうとしています。

 

もう、認められなくても認めちゃう。

認められるとこなくても認めちゃう。

認められるところだけを認めるんじゃなくて、「いまの」自分を認めようと思って。

 

最初に書いた「自分なんて認めるところがないと思ってた」というのは、「自分のいいところしか認めたくない」からだと思います。でも本当に幸せになるには、「今の自分」を認める必要があるんだと思います。

 


私は、頭は悪いし、アホだし、怒られるとすぐ泣くし、つまんない人間だけど。でも、まあ、とりあえずはこんな自分でもいいかなあ。だって頑張ってるし。

うん。きっとこれで十分なんだろう。十分ってことにしよう。そう思えるのは、大好きな人達がいるからで、私が頑張ってきたからだ、きっと。

 

生きづらいとか上手くいかないとか色々悩んだり泣いたりするけど、もうそれでいいことにしよう。どうせなんとかなるし、愛されてるよ。大丈夫。

 


けど、多分、今、心に余裕があるからこう思えてる。笑

切羽詰まってくると「自己嫌悪ループ」に陥るんだろなあ、笑


でも、上手くいかなくても、それでも私は頑張ってるはず!えらいはず!

えらいよ!辛くなってこの記事見返してるわたし~!えらいよ!毎日がんばってるよ!

大丈夫、大丈夫……(大丈夫を沢山言う時は大抵めっちゃ不安なとき)

 

 

もうね、新生活が不安すぎて、将来の病んでる私のためのブログを書きまくる日々。笑

でも、心が健康な今、こう思ってることは本当。


大丈夫、きっとこの先もすでに幸せだ。そういうことにしよ。がんばってるよ。

 

 

 

 

.

 

 

 

 


追記。

ついでに、読もう読もうと思って読めてない本があるんですけど、めちゃくちゃ今日の話にリンクしてそうなので貼ってみます。リンクしてるかは読んでないからわからないけど。笑

はやく読みたい。

読んだことある方いたらご感想ください!ききたいです。笑

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

 

 

2019年を生き抜く為の目標を立てるぞ!

 

 

こんばんは。

 

4月から大学院生です!(わー!)

 

 

4月から新生活を始めるにあたって、やっぱり今のままの自分では嫌で、すこしでも好きな自分になる為に今年の目標を立てました。新しい環境というのは、自分を変えるチャンスでもあるからね!(これ大学入学の時も言った)(結局変わらなかったということは内緒です☺︎)

 

多分、新しい生活が始まったら毎日忙しくなるし、ふと「つらいなあ」と思った時に、今日の目標を見返せるように、あと、「がんばるぞ」という覚悟をいつでも思い返せるように、ブログに書くことにしました。

 

調子悪い時は目標とかどうでもよくなってただ生きることに精一杯になるし、調子がいい時にしか目標って立てられないので。まだ新生活が始まる前のいまのうちに立てておこう!と。

 

 

ひとつめ。

間違うことを恐れないこと。

これは大事。わたし、強く何か言われると、すぐ泣いちゃうんです。それはべつに誰かに怒られてるわけじゃなくても、「○○(私)さんはどう思う?」の一言でも泣きそうになっちゃう。友達なら「わたしはこう思うよ」と言えるんだけど、目上の人だとダメ。どうしても「責められてる」感覚から抜け出せない。

「失望されたくない」と「何か言わなきゃ」と「求められる答えはなんだろう」で真っ白になって何も考えられなくなってしまう。

前までは、そんな自分に対して「ほんとダメだ……何やってんだ……つらい」の思考だったんだけれど、よくよく考えると友達の前では問題なく自分の考えを言えるわけだから、私は「他人に言える位の何か」を考えてはいるようだ。そこは自信を持とう。

 

じゃあなんで目上の人に意見を求められると途端に言えなくなるのか。「合ってるかわからないから」!これに尽きる!

常に求められてたいという欲から未だ抜け出せないのです。目上の人(特に尊敬している人)から失望されるのが怖い。「こいつなに言ってんだ」と思われるのが嫌だ。「外れ」たことを言いたくないんです。

 

そういう「認められたい」欲から抜け出せてないことを自覚しつつ、でも、「知らない」「わからない」ことって恥ずかしいことじゃないよね、と開き直ることにしよう。

意見が目上の人と違うことは、悪いことじゃないよね。私は知識がなくて馬鹿だから、つい目上の人の強い意見には怯んでしまうけど、でも私はきっと間違ったことは考えてない。ちゃんと頭で考えていることはあるはず。言葉は幼稚かもしれないし、文章になってないかもしれないけど。

 

知らないことを、恥ずかしいと思わない。

分からないことを、隠したりしない。

間違うことを、恐れたりしない。

他人の意見に流されがちだからこそ、(というより自分の意見に自信が無いだけ)「明確な正解を求められていない限り、間違うことを恐れない」ことを大事にしていきたいです!

 

 

 

ふたつめ。

ひとからちゃんと愛してもらっているということを忘れないこと(ちょっと恥ずかしいけど書いておきたい)

 

友達から嬉しいお手紙たくさんもらったこと。

「○○(私)がいたから学校がんばれた」と言ってもらえたこと。

卒業式の日に、大学の友達が私と離れ離れになることを惜しんで泣いてくれたこと。(めっちゃうれしかった)

学校を卒業したあとも、会おうと定期的に言ってくれる友達がいること。会ってくれる先生がいること。

ゼミの先生に「○○さん(私)がゼミ生でよかった」と言われたこと。

高校の担任の先生と飲んだ時に「この代は特別」と言われたこと。

そんな、嬉しいことをつらい時には思い出せるようにしたいなあ。思い返すだけでちょっとは頑張れる気がするから。

 

全然上手く笑えなかったり、関わり方がわからなくてムスッとしちゃったりして自己嫌悪したりしたけど、そうやって言ってもらえるということは、私は意外と頑張ってたんだなあ。新生活になっても、なんだかんだ頑張れるよね。つらくて消えたくなる時もあったけど、それも含めて間違ってるわけじゃなかったよね。

 

大変でつらい時こそ、こういうことを都合よく忘れて、「私なんか」って思っちゃうけど、意外と見てくれてる人がいて、認めてくれている人がいるんだ!ということを忘れないでおこう。

 

 

さいご。みっつめ!

ひとを認められる人になること。

むずかし~~~~!!!!!書きながら「むずかし~!」ってなってる。笑

 

人を認めるって本当に本当に難しい。

他人が誰かに認められているところをみると、相対的に自分が認められてないと感じてしまって、素直に褒められない。ひどいなあと自覚してる。

つい順位を付けたがるというか、認められたあの人は1番、私は2番、みたいな気持ちになっちゃう。

けど、けど。今年の目標は「他人を認める」だよ、私!!!!!わかったか!!!!!

自分の認められたいをぐっと堪えて「おめでとう」「よかったね」。一言言えるだけで何か変わる気がする。

 

まずは心の底からおめでとうと思えなくてもいいから、言葉でおめでとうを言える人間になろう。22歳にもなってここから?って感じだけど。おめでとうを言えたらもうえらいことにしよ。友達におめでとうを言えた日にゃ、帰りにコンビニでスイーツ買うことを許すよ!

 

最終的には心の底から「おめでとう」言える人間になりたい。他人が嬉しいことを私も心から喜びたい。本当はその人がずっと頑張ってきてること分かってるから。

「わたしも認められたい」とか「あのひとみたいになりたい」とかそういうこと全く考えずに、心から誰かを応援できる人になりたい。そのためにまず自分の認められたいは横に置いて、他人に「おめでとう」を言える人になりたいな。

 

 

あと小さい目標は細々とあるけど、この3つが出来たらえらいことにしよう。

笑顔も忘れないように頑張ろう。笑うの大好きだから、楽しい時には沢山笑おう。つらい時も頑張って笑おう。

 

うわーーーこんな事つらつらと書いてたら、新生活嫌になってきたよ。

もうこの記事書いてる時点で悩む未来しか見えてないんだもん。「まいにちつらいよお」と言ってる未来用の記事だもん……

「毎日ハッピー人生楽しい!」みたいな未来をまるで想定してないのやばいなあ…………はあ。

 

でもね、なんだかんだ、わたしはわたしを、頑張れる人間だと信じてるよ!今まで頑張ってきたんだもん!

 

しかも、なが~~~~~~い目で見れば2019年なんてほんの一瞬でしょ?イケるイケる。

何やらかしたって大泣きしたってきっとそんなの忘れるくらい長生きするはず。死ぬこと以外かすり傷らしいし。

恥ずかしがらずにいっぱい失敗しよう。旅の恥はかき捨てだって言うし。旅しないけど。

 

 

 

 

こんな自分で生きる

 

 

こんばんは。

 

なんかね、当たり前のように「あれ、死にたいな……」って思う日々があったんです、ちょっと前まで。絶対絶対、死なないんだけど。こんなままでは死ねないし。

 

死にたいという言葉でその後の思考を放棄してるだけであって、本当は死にたいわけじゃないのは自分でも分かってます。

 

私はたぶん生きるのがへたです。もっとのらりくらりと、上手に、器用に、笑って生きていたい。

自分の言葉や態度に毎度後悔して、人の顔色を伺いながら生きるのがしんどい。そんな自分の世渡り下手さを、「死にたい」という言葉で隠して嘆いているだけです。全然死にたくない。もっとうまく生きたい。

 

で、当たり前のように「ああ……今日もまたやっちゃった……しっ、死にたい……」と思いながら、「いや待てよ、結局生きるし……」って思うようになった。

 

死にたい、というより、ふっと、このままいなくなりたいなあとかは本気で思ったりしました。誰にも迷惑かけずに、誰の記憶にも残らずに、存在ごと消えたい。みたいな。

けど、まあ、当たり前だけど存在ごと消えることは無理で。死ぬことはやろうと思えばできるんだろうけど、絶対に自分から死ぬことはしたくない。私が今死んだらまず必ず親が悲しむし。

 

親が死んだら、私はどうなるんだろうか。

「何歳まで生きたい?」という、軽い友人同士の会話ではいつも「親が死んだらいつでもいい」と言ってます。これは、まあまあ本音なのだけれど、親が死ぬ前に、私が「これを置いては死ねない!」ってモノが出来てるかもしれないわけだから、確実ではないなあ。

 

そう考えてると、死にたくっても結局生きるんだよなあと思うようになった。

もう、「こんな自分嫌だ、死にたい」と悩むのが時間の無駄で、「こんな自分を抱えてどうやって生きていこうか」と思った方が建設的だなとおもったのです。

 

そりゃあ「友達と上手く付き合えない自分」とか「素直になれない自分」とか、そういう嫌いな自分のせいで上手くいかないこと、たくさんあります。消えたいなとその余韻で思うこともある。

 

なんかこう、嫌いな人とこの先も付き合っていかないとならない状況だったり。他人に嫌な気持ちを持ったり。持たれたり。上手く笑えなくて泣いたり。「あ~……私何言ってんだろ」って死ぬほど後悔したり。

そんな自分が嫌で仕方なくって、でもどうすればいいかわからない。

 

でも、「あ、私どうせこのまま生きていくしかないんだよなあ」と思ったら、ちょっと楽。

だって、どうやったって面白くないことは面白くはならない。上手く話せない友達とは楽しく話せない。

わたしがどうあろうと悪口を言ってくる人は必ずどこかにいるわけで。私は私を、もうこれ以上変えられない。頑張りたくない。つかれた。

 

 

 

めちゃくちゃ例えばですが。

あなたに、もし過去をやり直せる機能が備わったとして。 自分の頭上に、「この分岐点まで戻りますか?」みたいな表示が出て、やり直したい過去まで戻ることができるとして。

あなたは過去の自分と違う選択ができますか?できる自信はありますか?

 

もしやり直したいほど後悔した過去に戻れたとしても。わたしは、結局前と同じ選択しかできない気がしています。だって過去も今も「私」という人間だから。

毎回毎回、何かの度に後悔はしてるし、自己嫌悪もするけど、私は多分その選択しかできない。

 

わたしは、常にその状況で最善の選択をしていると思っています。

だから後悔はしても、やり直したい、とかはあんまり思いません。もちろんたまに「お願いだから時よ戻って……」と思うことはあるけど、すぐに「いや、あの時の私はこれしか出来なかった、仕方がない」と自分を納得させられます。

 

その時々で自分なりに最善を尽くした結果が最悪だったとしても、それがわたしなんだなあと。あの時よくがんばったなあ、とおもう。

 

 

あれ、なんの話だっけ。笑

閑話休題

 

えっと、だから、自分なんて嫌いで直したいところばっかりだし、まだ好きにはなれないけど、でも、「死にたい」と考えるよりは、「こんな自分でどうやって生きてこう」と悩んだ方が、まだマシかな。と思ったという話です。

 

最初にも、ちらっと書いたけど、わたし的に「死にたい」と思うことはとても楽なことで、思考放棄と同義だから。

結局、何も解決はしないし、絶対死なないしで本当時間の無駄。(あくまで私の場合は、です)

 

 

どうやって、嫌いな人と付き合っていこう。

どうやって、楽しく友達と話をしよう。

多分失敗するし、自己嫌悪するし、でも、これが自分なんだよなあ。この嫌いな自分とどうやって生きていこうかな。

 

まずは、嫌いな人に怒らなかった自分を褒めようかな。

上手く友達と話せなかったけど、その場にい続けたことはすごい。逃げなかったこともすごい、えらいなあ。

上手く笑えなかったけど、もっと上手く笑いたかったけど、でも、上手く笑えない自分にしては、頑張って笑う努力をしたんじゃない?

 

不器用ながらに生きてる私、やるなあ。

不器用ながらに生きてるあなたも、すごいです。

 

 

死にたいと思うほど嫌いな自分と、まずは向かい合うところから始めたいな。

向かい合って、しっかり目を見て。そしたら、嫌いな自分を消すんじゃなくて、抱えて一緒に生きていきたいなあ。

 

嫌いな自分を変えようともがく努力はもちろん素敵だし、時には必要だけど。でも「変えたい、変われない」と泣くよりは、「一緒にどうやって生きようか?」と少しづつ考える方が私には合ってるなあと思った話でした。