在処離れ

やさしく、あったかく生きていきたいです。

本当のやさしさってなんだろう

 

こんにちは。

 

「やさしい人になりたい」

 

わたしの中にずっとある、目標であり、理想でした。

 

 

中学・高校・大学・大学院。

今までの人生、ずっとやさしい人たちのおかげで頑張ってこれたから。

本当、びっくりするくらい、たくさんのやさしい人たちに囲まれ、恵まれてきたと思う。

 

わたしもそうなりたい。他人にやさしくあたたかい人で在りたい。

 

 

だけど、やさしくなるのって本当難しい。

そもそも真に「ひとにやさしくなる」って今から可能なんだろうか、そんなことを考えてます。

 

わたしの周り、みんなやさしい人たち。

どうしてそんなにやさしいんだろう、といつも思う。

 

わたしがやさしさのつもりで言った言葉が、した行為が、結局自分のことしか考えてないやさしさだった、ってこと往々にしてある。

私がやさしさだと思ってしたことは、本当に相手が望んでいたことじゃないし、相手が喜ぶことでもなかった。

自分が満たされるための独りよがりのやさしさ。わたしはそんな偽物のやさしさしか持ってない。

だから、いつも間違う。

 

 

 

わたしは「やさしい」と言われることが多い。

 

やさしい、と言われること自体は嬉しいし、自分でも「やさしい」と他人から言われる振る舞いをしていると思う。

 

ひとにやさしいと思ってもらいたいから、ひとにやさしくしている。

やさしさに対して、たぶん、何かしらの見返りを求めている。

 

とにかく、わたしは自分のことにしか興味がない。

自分が人からどう思われているのかとか、どうしたら自分がやさしいとみられるのかとか。

ひとのことより、自分のことばかりにしか関心がないから、人の気持ちを理解することも汲み取ることも、到底たどりつけなくて、「やさしい人」からどんどんかけ離れていく。

 

 

だから、人から「やさしいね」と言われると、もやもやしてわけのわからん罪悪感に襲われる。うれしいんだけど。やさしいと言ってもらってありがたいんだけど。でもなんかちがう。求めてる言葉じゃないような感じ。自分勝手だなぁ。笑

 

「やさしくないのに」と思う。「ごめん」という感情でいっぱいになる。だって、私は結局あなたのことなんて全然考えてなくて、自分のための行動しか取ってない。

 

 

 

 べつにやさしい人になりたいわけじゃない。

いや、やさしい人になりたいんだけど。うーん…

人にやさしいと思われたいわけじゃない、というか。

 

 

やさしいと思われたくてやさしいふるまいをしているけど、やさしいと思われたいと思うのをまずやめて、本当に人のことを考えられるようになりたい。そんな感じ。

 

やさしさに見返りを求めている自分に心底うんざりしている。

自分が他人にどう思われているか、そんなことばっかり考えている自分が気持ち悪くてしょうがない。

 

 

大事な人に、迷いなく大事な言葉を伝えたい。真摯に向き合いたい。

でも、口を開くたび、「よく見られたい」自分が邪魔をしている。

いつも自分のことばっかりに支配されて、結局言葉にできなかったり。伝わらなかったり。

 

「違うのに。」何か言ったあと、いつもそう思っている気がする。

「また間違った」。そんな感覚がずっと抜けない。やさしさとは程遠いわ。

 

 

どうしたらいいんだろう。

本当にやさしい人になるにはどこからどう努力していけばいいんだろう。

わたしはたぶん「やさしい人」は向いていない。

でも「やさしい人」に憧れている。

 

 

というか、わたしにとって「やさしい人」ってどんな人なんだろう。

 

  • 他人のことを思いやれる人。他人の気持ちになって考えられる人。
  • 「無償の愛」を持っている人。
  • 他人の幸せを喜び、他人の悲しみを悲しめる人。

 

ぱっと思いつくのはこれくらいかなぁ。

 

 

他人の気持ちになって考える…これができたら苦労してないよね…

ひとの話を聞いている最中も、ついやさしくない自分が顔を出しちゃって。

「なんで?」って聞きたくなる。「そんなの〇〇でしょ」とアドバイスしたくなる。

でも、本当、人の気持ちなんて複雑なもので、人それぞれ。

発したことばの背景に何があるのかなんてわかりようがなくて。

だからこそ寄り添いたいなぁ。わかりたい。教えてほしい。

うん、その努力をしよう。「ちゃんと聞く」ということを怠らないようにしよう。

 

 

「無償の愛」って、見返りを求めない愛だと思っている。

自分になにもプラスになることがなくても、心から、相手にしてあげたいと思うこと、言ったほうがなと思うこと。そんなことは恐れずにやれたり言えたりする人になりたい。

 

言い方の問題はあるけど。相手のためだなと思って言った言葉でも、攻撃的な言葉遣いじゃ、相手にとって「敵」になってしまうかもしれないから。

なるべく味方だよって伝えながら。正しい言葉で、正しく伝わるように。

でも、それも結局自分が嫌われたくないとか。そういうのが邪魔していつも言いたいこと言えないんだよね。思ってるけど、言えない。

 

そう考えると、本当にやさしいひとって孤独を恐れていない人なのかもしれない。

ちょっと違うか。もし孤独になったとしても、自分と周りの人たちを信じる強さがあるのかも。

 

 

他人の幸せを喜ぶこと。これも難しいんだよなぁ…!

嫉妬がね。でてきちゃうのよ、つい。

自分にないものを持っている人って、うらやましくて。キラキラしていて。

ちょっと前まで、あの子は自分と隣にいたのに。なんかいつの間にか、一足抜けて違うところに行っている、それを素直に喜べない。

 

隣の芝生って、本当ずっと青いし。

なんかいつみても青い。笑

 

でも、隣のきれいな青い芝生を持つ子が人より何倍もお世話して、水あげて、草刈りして。そういう風に育ててきた芝生だってこと、私はわかってるはずなんだよね。見てきているはず。

それなのについ、いじわる言ったりしちゃって。「あなたの芝生綺麗だけど、あそこだけなんか枯れてない?」とか粗探ししちゃったりして。 

 

素直に「きれいな芝生だね、いいなぁ。」って言ってあげられる人になりたい。

わたしはきれいだねって、言ってもらってきているのになぁ。どうして言えないんだろう。どうして他人の芝生を見れないんだろう。

 

まずは自分の芝生をきれいにする努力をしなくちゃだめなのかな。

でも、自分の芝生を綺麗にする努力をすればするほど、他人の芝生を認められない気がする。

 

絶対届かない完璧な芝生って、逆に手放しで認められるけど(小松菜奈がかわいいとかって、私が僻んでもしょうがないのと同じように)、一緒に切磋琢磨してきた人こそ、認めるのは難しい気がする。「私だってこんなに毎日丁寧に水あげたのに」って。「なんであの子の芝生だけ褒められてるの」って。

 

 

自分の芝生がきれいじゃなくても、他人の芝生を褒められる人っているよね。なんだろう、あれ。すごい。

 

 

 

うーん。

 

 

書きながら、なんか違和感。笑

 

「やさしい人になりたい」って沢山書いたけど、そんなこと書いてる時点でやさしい人にはなれない気がしてきた。笑

 

 

だって、本当にやさしい人って、別に「やさしくしよう」と思ってやさしくしているわけじゃないわけで。

 

自分の欠けている「やさしさ」の埋め合わせに他人を利用している段階で、もう「やさしい人」とは真逆の方向を向いている気がする。

 

 

なんか、もっとシンプルに、大切な人が感じていることと同じことを感じたい。分かりたい。それが私のずっと言っている「やさしさ」の原点な気がしてきた。

 

同じ「1」でも、「1分の1」じゃなくて「2分の2」にしたい、そんな感じ。難しいね。

 

「2分の2」にしたくて、一緒に喜びたいのに、悲しみたいのに、そこに自分の嫉妬とか、嫌な感情とか、そういうのが邪魔をしている感じ。それがつらい。

 

でもそういう感情まで無くすのは絶対に無理なんだよなぁ。私もいち人間だし。

 

そういう嫌な感情を持っていても、他人の気持ちを分かろうともがいていたら、それを分かち合ってもらうことってできるかな。

 

 

「やさしい人」になりたいっていうより、大切な人の喜怒哀楽を一緒に感じあい、一緒に喜び、悲しめる人になりたい、のかもしれない。